【読書感想】漫画・君たちはどう生きるか「吉野源三郎」おすすめ!(令和元年12月30日更新)

【こちらの記事は令和元年12月30日更新しました】

こんちは〜xxxryoです^ ^

20181番売れた本」として、各書店にて目立つところに配置されていた本「君たちはどう生きるか」を読んでみたので、自分のためになったところを書いていきたいと思います。

内容は「主人公コペル君」と「おじさん」の対話構成になっております。

ものの見方について

コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかりと座りこんでいると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりのことではない。

世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。

子供のうちは、どんな人でも、地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。

子供の知識を観察してみたまえ。

みんな、自分を中心としてまとめあげられている。

電車通りは、うちの門から左の方へいったところ、ポストは右の方へいったところにあって、八百屋さんは、その角を曲がったところにある。

静子さんのうちは、うちのお向かいで、三ちゃんところはお隣だ。

こういうふうに、自分のうちを中心にして、いろいろなものがあるような考え方をしている。

人を知ってゆくのも同じように、あの人はうちのお父さんの銀行の人、この人はお母さんの親類の人という風に、やはり自分が中心になって考えられている。

それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になってくる。

広い世間というものを先にして、その上で、いろいろなものごとや、人を理解してゆくんだ。

場所も、何県何町といえば、自分のうちから見当をつけないでもわかるし、人も、何々銀行の頭取だとかは、何々中学校の校長さんだとかいえば、それでお互いがわかるようになっている。

しかし、大人になるという考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。

人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、大人の間にもまだまだ根深く残っている。

いや、君が大人になるとわかるけれど、こういう自分中心の考え方を抜け切っているという人は、広い世の中にも、実にまれなのだ。

殊に、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、非常にむずかしいことで、こういうことについてすら、コペルニクス風の考え方のできる人は、非常に偉い人といっていい。

たいがいの人が、手前勝手な考え方におちいって、ものの真相がわからなくなり、自分に都合のよいことだけを見てゆこうとするものなんだ。−引用

ぼくもかなり当てはまります。

自分」を離れて正しく「判断」していくというのはかなり難しいことですが、「人生」において重要な「道徳的」な問題だと思います。

まだまだ「手前勝手」な考え方でおり、本当にものの真相がみえなくなり、「自分都合」で良いところだけ追っていってるなと感じました。

人間の結びつきについて

人間は、どんな人だって、一人の人間として経験することに限りがある。

しかし、人間は言葉というものをもっている。

だから、自分の経験を人に伝えることもできるし、人の経験を聞いて知ることもできる。

その上に、文字というものを発明したから、書物を通じて、お互いの経験を伝えあうこともできる。

そこで、いろいろな人の、いろいろな場合の経験をくらべあわすようになり、それを各方面からまとめあげてゆくようになった。

こうして、できるだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげていったものが、学問というものなんだ。

だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。

そして、そういう経験を前の時代から受けついで、その上で、また新しい経験を積んできたから、人類は、野獣同様の状態から今日の状態まで、進歩してくることができたのだ。

それから、最後にもう一つ。

君が生きてゆく上に必要な、いろいろな物をさぐってみると、みんな、そのために数知れないほどたくさんの人が働いていたことがわかる。

それでいながら、その人たちは、君から見ると、全く見ず知らずの人ばかりだ。

このことを、君はへんだなあと感じたね。

広い世間のことだから、誰も彼も知り合いになるなどということは、もちろん、できることじゃあない。

しかし、君の食べるもの、君の着るもの、君の住む家、すべて君にとってなくてならないものを作り出すために、実際に骨を折ってくれた人々と、そのおかげ生きている君とが、どこまでも赤の他人だとしたら、たしかに君の感じたとおり、へんなことにちがいない。

へんなことにはちがいないが、今の世の中では、残念ながらそれが事実なんだ。

人間は、人間同志、地球を包んでしまうような網目をつくりあげたとはいえ、そのつながりは、まだまだ本当に人間らしい関係になっているとはいえない。

だから、これほど人類が進歩しながら、人間同志の争いが、いまだに絶えないんだ。

人間が人間同志、お互いに、好意をつくし、それを喜びとしているほど美しいことは、ほかにありはしない。

そして、それが本当に人間らしい人間関係だと、コペル君、君はそう思わないかしら。−引用

理想論ですが、人々1人1人には「役割」があり、「尊重」し合うべきだと思います。

すべてのもの」に対しても、だれかの「おかげ様」で与えられている。

ただそれが「当たり前」になっているのと、自分の「得手勝手」な「考え方」で「不満」を口にしたりする。

もっとだれかの「おかげ様」で与えられているありがたみ、常に「感謝」しながらお互いに喜び合えるようにと感じました。

人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて

人間が、元来、何が正しいとかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったこてについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。

僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することもできたのに、と考えるからだ。

それだけの能力が自分にあったのに、と考えるからだ。

正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、なんで悔恨の苦しみなんか味わうことがあるだろう。

自分の過ちを認めることはつらい。

しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。

「王位を失った国王でなかったら、誰が、王位にいないことを悲しむものがあろう」

正しい道議に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしないのだ。

人間である限り、過ちは誰にだってある。

そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。

しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。

「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目覚めに対すると、同じ関係にある。

人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある」

これはゲーテの言葉だ。

僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。

だから誤りを犯すこともある。

しかし、僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。

だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。

そして、コペル君、君のいう「人間分子」の運動が、ほかの物質の分子の運動と異なるところも、また、この点にあるのだよ。−引用

誤り」はだれにでもあるが、「立ち直る」ことが「1番重要」となる。

共に「自分」で決める力があるので、どちらに転ぶのも「自分」で決めることができるということですね。

過ち」もみとめ、「自立」して「自分」で決断していける「人間」になっていきたいと感じています。

まとめ

非常に考えさせられる」内容となってます。

漫画」でわかりやすく伝わってくるのと、「人生」においての「考え方」や人類全体を含めた「考え方」など書いており、非常に参考になる内容でした。

ただ小説を読み慣れたかたは「小説版」をおすすめします。

ぼくは「漫画版」を購入したのですが、漫画と文章の行き来が慣れてないもので、「小説版」にしたほうがもっと理解しやすかったかな?と感じました。

小説」を読み慣れてないかたは「漫画」が良さそうですね。

どちらにせよ為になる内容となってますので、ぜひ読んでもらいたい一冊です。

「オススメ」です!

 

created by Rinker
¥1,430 (2020/10/25 16:31:03時点 楽天市場調べ-詳細)

 

 

created by Rinker
¥1,430 (2020/10/25 16:31:03時点 楽天市場調べ-詳細)
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。